教育の原点“教師”

シューッ。

ホワイトボードに黒い線が走る。生徒の視線がそれを追う。教えている者は、彼ら(彼女ら)に、満月のように流麗な円を描いて見せてやろうと思う。

しかし、現実は彼の思いとはウラハラに作り損じの塩焼きせんべいみたいな月がぽっかりと白板に浮かんでいる…。

塾を始めてはや48年が経とうとしています。

様々な生徒にふれ、数々の経験を積み、完璧なプロと云われるようになりながら、今もって私は満月のような滑らかな円が描けないのです。 しかし、今思うことは、あの塩焼きせんべいにこそ私をはじめ、教える側の人間の心情がこめられているのではないか、現れているのではないか、ということです。

人間は、コンパスもなにも使わないで正確な円を描くことはできません。

ガリレオだってニュートンだって森重文教授だってそうです。

絶対にできるわけはないのです。 ですが、人間が描いたものには、何か、温かみがあります。当然と云えば当然なのですが、親近感を覚えるのです。

白板に描かれた塩焼きせんべいには、それを描いた人の味、人間性というものがそこはかとなく感じられるのです。

これに対して生徒の方も反応し、無意識のうちにも自分たちの胸中を語りかけてきます。子供たちの心は、いつも春の海のようにゆったりと、力強いものに感じられます。

向学館は、この生徒とのコミュニケーションをとても大切にしています。

このことこそ、向学館が生き字引図書館ではなく、真の勉強、人生勉強も全て含んだ本当の勉強のできる道場であるといえる由縁ではないでしょうか。

48年間の塾教育の実践の中で私は一つの結論めいたものをつかみかけています。それは『理想の教師(先生)像』です。

明治維新(今年は維新150周年)の時に多くの人材を生んだ松下村塾で吉田松陰が塾生を指導したのは、わずか二年です。

「少年よ大志を抱け」のクラーク博士も札幌農学校で教鞭を執ったのはたったの8カ月です。ともに短い歳月で後世に偉大な触発を残しています。

教育は教師(先生)で決まります。教師の一念心で決まるのです。

ですから私は教師を第一に考えます。 向学館の教師(講師)は力豊かな、しかも愛情のこもった教育のエキスパートです。

教師は生徒にとって、拷問(パワハラも含む)の道具にもなれますし、また逆に意欲を与え、ヤル気を起こさせる媒体にもなれます。

子供が人間らしく伸び伸びと育っていくかどうかは、多くの場合、その教師にかかっているのです。

教師は生徒一人ひとりの資質というものを実によく見抜く『目』を持っていることが大切です。あらゆる場面で、その生徒の長所を見つけ出しては本人に示す必要があります。

「〇〇さんはこの点で、大変優れているね」。「△△君はいつもコツコツ頑張ってるネ」等々 常にこういった見方で生徒を激励します。

こんな風に言われたとき、その生徒は奮い立たざるを得ません。

教師とは、子供たちにとって良いと思われることを

‘理論に溺れず’‘面子にこだわらず’‘自己中心的にならず’素直に実行できるオトナのことを言います。 教育問題については、沢山の専門家が日々研究を重ねていますから恐らく多くの事が近々解決されると思います。(楽観のしすぎでしょうか?)。 新しい概念を伴った教育方法、極めて理想的な教育環境が必ずや開発されるに違いありません。

しかし、「学習のための好ましい情緒的風土」を作り出すという教育の根幹にかかわる機能だけは、常に教師と共に存在しているはずです。

どんなに優秀な機械も、どんなに高性能なコンピュータも、たとえそれが如何に改良されようともこの仕事をすることはできないでしょう。

人間が人間を‘教え育んでいく’という無定形ではあるが極めて重要な、人間社会の根底にふれる問題においては、人間知識の素晴らしさの方が技術の進歩をはるかに上回っていると思うのです。

向学館の教師.講師はどこの誰よりも生徒一人ひとりを大切にします。

そんな向学館に是非、貴家お子様をお託しください。

向学館々長 岩田 薫